一九三三年、一つのエッセイ
谷崎潤一郎が雑誌『経済往来』に『陰翳礼讃』を連載したのは一九三三年から翌年にかけてのことである。短いエッセイだが、主張は明快だった。西洋建築は光を追い求め、日本建築は暗がりを育ててきた。金屏風も漆器も床の間も、暗い場所に置かれて初めてその質感を立ち上げる。光を消すのではなく、陰を設計することこそが、日本的空間の論理だった――そう谷崎は書いた。
出版から九十年以上を経て、このエッセイはいまも版を重ね続けている。英語、フランス語、中国語など十数言語に翻訳され、建築史の授業の課題文献としても頻繁に扱われている。
建築家たちの応答
現代の建築家、とくに国際的に活動する世代は、しばしば『陰翳礼讃』を参照してきた。藤森照信は自著および講演のなかで、自然素材と暗がりを重視した自作の茶室建築を、谷崎的な美学の系譜に位置づけてきた。
隈研吾は著書『負ける建築』(二〇〇四)で、コンクリートとガラスで積み上げる近代主義建築を「勝つ建築」と呼び、場所と素材に溶け込む建築を「負ける建築」と呼んだ。隈自身は谷崎を直接の源泉として挙げないことも多いが、両者の美学的親縁性はしばしば指摘される。茶の湯の沈黙が音の領域で「間」を作るように、谷崎の陰影は視覚の領域で「間」を作っている。
和室という装置
エッセイが繰り返し描く具体的な空間は、和室である。障子越しに弱まる光、畳の鈍い反射、床の間の暗がりに置かれた掛軸。こうした装置の総体が、谷崎にとっての「日本」だった。
ところがマンションのなかの和室のデータが示すように、新築住宅で和室が占める面積は長期的に減り続けている。谷崎の描いた陰影の空間は、文章のなかでは読み継がれながら、実物は家庭から姿を消しつつある。
一方で――違和感の所在
ただし、『陰翳礼讃』を無批判に称揚することには、今日の読者の側にも留保がある。エッセイ後半の女性の肌や化粧についての描写は、男性読者が見る対象としての女性を前提にしており、現代の文脈ではそのまま引用しにくい。エッセイの美学的主張と、そこに混じるジェンダー的前提を、どう切り分けて読むか――これは単純な問題ではない。
柄谷行人の懐疑
批評家柄谷行人は、近代日本文学論のなかで、谷崎が描く「日本的美意識」は、近代以前に実在した何かではなく、西洋モダニズムとの対比のなかで一九三〇年代に構築された像だと論じた。つまり、谷崎は伝統を記述しているのではなく、発明している――この指摘は、いまも谷崎研究の基本的な論点のひとつである。
読み続けられる理由
『陰翳礼讃』が九十年以上読み継がれているのは、答えを提示しているからではない。光と陰、近代と前近代、西洋と日本という二項対立を、装飾的に美しい散文のなかに温存しているからである。読者は自分の関心に応じて、美学の教科書として開くこともあれば、批評の対象として開くこともある。同じ文章が、これだけ異なる使い方を許容する懐の広さを持っていることこそが、この古典の現在である。
- 谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)
- 隈研吾『負ける建築』(岩波書店, 2004)
- 柄谷行人『日本近代文学の起源』(講談社文芸文庫)