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工芸と職人

漆の木から椀まで――二〇二四年の能登、その後

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漆の木から椀まで――二〇二四年の能登、その後

漆の木、十五年の待ち時間

漆器の出発点は、ウルシの木である。ウルシ(Toxicodendron vernicifluum)は日本各地で栽培されてきた落葉高木で、樹齢十五年前後から幹を削って樹液を採取する。一度傷つけた木は数年で枯れるため、採取は実質的に一回限りの収穫である。つまり、器一つに塗られる漆の背後には、十年以上の育成期間が存在する。

国内のウルシ需要のほとんどは、近年まで中国産に依存してきた。だが文化庁は、重要文化財の修復には国産漆を優先的に使用する方針を打ち出し、岩手県浄法寺や茨城県大子などの産地で、国産漆の復活が進んでいる。この政策変更は、漆を使う現場の経済を静かに組み直してきた。

塗師という職能

漆器はしばしば「塗る」と一言で表現されるが、実際の工程は素地作り(木地師)から、下地、中塗り、上塗り、研ぎ出し、蒔絵まで、専門化された手仕事の長い連続である。このうち、中塗り以降を担うのが塗師(ぬし)と呼ばれる職人である。

一つの器が塗り上がるまで、数十の工程と数か月を要することも珍しくない。工程ごとに乾燥時間が必要で、時間を短縮する方法はほとんど存在しない。有田焼が量産と作家物の両輪で生き残ってきた構造と異なり、漆器はそもそも短時間大量生産になじまない。

三つの産地――輪島、木曽、津軽

日本の漆器の代表的な産地は複数あるが、とりわけ知名度が高いのが三地域である。石川県の輪島塗は、堅牢な下地技法「地の粉」と華麗な蒔絵の伝統で知られる。長野県の木曽漆器は、曲げ物などの日常品に強く、山国の需要に応じた実用的な発展を遂げた。青森県の津軽塗は、色漆を重ねた独特の斑紋が視覚的に際立つ。

それぞれの産地には、伝統工芸士会と地方自治体による技術研修所が設けられている。石川県立輪島漆芸技術研修所はその代表例で、塗師を志す若い研修生を、職業として受け入れる公的な窓口として機能してきた。

二〇二四年一月、能登半島地震

二〇二四年一月一日の令和六年能登半島地震は、輪島塗の生産基盤に甚大な被害をもたらした。多数の工房が倒壊・焼失し、塗師の命も失われた。震災前から続いていた高齢化に、生産設備の喪失が重なった。

石川県と輪島市、漆芸技術研修所、伝統工芸士会は、道具と工房の再建支援に動いたが、復興は数年がかりの課題として続く。震災前の水準までの回復には、二〇二六年現在も見通しが立たない。

若い世代は微増しているが

それでも過去十年ほどを見渡すと、漆の世界に二〇代・三〇代で参入する職人の存在感が、微細ながら増している。美術誌の職人特集や、SNSで作品を直接販売する若手塗師の活動――こうした可視化の動きは確かに存在する。

ただし、経験豊富な塗師たちは、この増加の脆弱性を語る。生活できる収入までに十年単位の時間が必要で、その間の経済的支えが制度として薄いからである。

一方で――伝統という重荷

若手塗師のなかには、伝統様式を厳格に守ることをためらわない層と、素材だけ残して様式を自由化する層が併存している。後者の実験作は、伝統派からは「それは漆芸ではない」と評価されることもある。素材の伝統と様式の伝統は、じつは同じものではない――この区別が意識されはじめた現在の状況は、以前の継承議論と明らかに位相が変わってきている。

長い時間の脆さ

漆の継承は、長い時間軸がいくつも重なり合った構造の上に成り立ち、一度途切れると修復に同じだけの時間を要する。二〇二四年の地震以降、この脆さは、産地の外からも以前よりはっきり見えるようになった。