だしの地理学という発想
だしは料理の下ごしらえの一部でしかないように見える。しかし、どの素材をどう引くか――この選択の違いが、地域ごとの食文化の輪郭を決めてきた。だしは、食品流通の地理と家庭内の食習慣の重なり合いから生まれた、地理学的な現象である。
食文化人類学者の石毛直道は長年にわたり、日本の食を単一の「和食」として均質化せず、地域ごとの系譜に分けて記述する必要性を論じてきた。だしの分布は、その地域差を最も端的に映す要素の一つである。
関東の鰹節、関西の昆布
一般的には、関東のだしは鰹節ベース、関西は昆布ベース、と語られる。東京の蕎麦つゆが濃い醤油色なのに対し、京都のうどんだしが透明感のある琥珀色であるという、視覚的にも分かりやすい違いが背景にある。
この分岐の起源を江戸期の流通構造に求めるのが、食文化史の定番の説明である。北海道産の昆布は北前船によって日本海側から大阪に運ばれ、大阪は江戸期すでに日本最大の昆布消費地となっていた。一方の江戸は、関東沿岸の鰹漁と紀州からの鰹節供給によって、鰹節中心の味覚を形成した。
| 地域 | 主要だし | 特徴と代表的な料理 |
|---|---|---|
| 関東 | 鰹節 | 濃いめの醤油だしで、蕎麦や煮物に |
| 関西 | 昆布 | 薄口醤油と合わせ、透明感のある汁物に |
| 九州(長崎・福岡) | 焼きあご | 独特の香ばしさ。雑煮やラーメンに |
| 沖縄 | 豚骨 | 鰹節との合わせだしで、沖縄そばや中身汁に |
| 北海道 | 羅臼昆布 | 道産昆布の地元消費と本土への供給を兼ねる |
辺境が持つ別系譜
関東・関西の二分で整理される言説からこぼれ落ちるのが、日本の三方の辺境である。
九州の焼きあご(トビウオの焼き干し)は、長崎・福岡・佐賀で広く使われ、あご出汁ラーメンや雑煮の重要な要素である。農林水産省の和食関連資料でも、焼きあごは地域だしの代表例として位置づけられている。沖縄は伝統的に豚骨をだしの基調とし、鰹節を合わせて沖縄そばや中身汁を作る。北海道は、自らが高級昆布の産地でありながら、鮭節や羅臼昆布を使う独自のだし文化を発達させた。
これら三地域のだしは、関東の鰹節型でも関西の昆布型でもない。だしの地図は、本州中央の東西二分化よりはるかに複雑である。
北前船という流通装置
関西の昆布文化を形作ったのは、一七世紀から二〇世紀初頭まで続いた北前船の航路である。北海道松前で仕入れた昆布を、日本海側の各港を経由して大阪まで運ぶこの物流網は、単に昆布を運んだだけでなく、途中の富山湾岸や山陰の港町にも独自の昆布文化を残した。沖縄まで流通した昆布は、沖縄料理にも豚骨と並ぶもう一つの定番素材として定着した。
だしの地理学は、魚の漁場と昆布の藻場だけでは説明できない。江戸期の流通のネットワークが、現代の家庭の味噌汁にまで到達している――これがだしの地理学の核心である。
一方で――東西二分は誇張されているか
石毛直道をはじめ、食文化研究の系譜からは、関東=鰹節、関西=昆布という単純な二分法の過度な強調に対する批判が繰り返し示されてきた。実際には、関東でも家庭料理で昆布を引く家は多く、関西でも蕎麦つゆには鰹節が使われる。二〇世紀の食品産業と広告言説が、地域差を実態以上に鮮明な対立として描き出した面も否定できない。
地図としてのだし
だしを地理的に読むというのは、食文化を単一の「日本料理」として均す言説への距離の取り方でもある。七十二候で暦を読む試みと同じく、均質化された「日本」の内側に、複数の時間軸と空間を回復させる作業である。味噌汁一杯の背景に、四〇〇年の流通史と三〇〇〇キロの航路が沈んでいる。
- 石毛直道『日本の食文化史』(岩波書店, 2015)
- 農林水産省 和食文化関連資料
- 味の素食の文化センター 食文化ライブラリー