「古典」のなかで書き続けられる現在形
能というと、室町以来の古典芸能、つまり博物館に入った形式だと思われがちだ。ところが現代においても、能は新しく書かれ続けている。このジャンルは新作能と呼ばれ、能楽協会の活動報告にも定期的に登場する。六百五十年近い歴史を持つ演劇が、いまも作者を募集しているという事実は、日本の古典芸能のなかでも際立つ。
新作能の作者は能楽師だけではない。詩人高橋睦郎は複数の新作能台本を手がけてきた。文学の側から能の形式へ接近する動きが、戦後を通じて細い線ながら続いている。
野村萬斎の二重戦略
能と並ぶ中世芸能である狂言の側からも、現代への接続が試みられてきた。野村萬斎は、狂言師としての活動と並行して、世田谷パブリックシアターの芸術監督を長く務めた(二〇〇二年―二〇二二年)。その間、シェイクスピア作品を狂言様式で上演するプロジェクトを継続してきた。代表的なのが『まちがいの狂言』――『間違いの喜劇』を狂言様式で上演した作品で、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーとの共同制作として出発した。
これは単なる異文化ミックスではない。萬斎の上演戦略は、狂言の型――所作、声の出し方、歩法――を保ったまま、言語と物語だけを入れ替える構造である。谷崎が『陰翳礼讃』で描いた陰影の美学と同じく、空間と身体の「間」が先にあり、内容はその上を通過していく。
誰が観ているのか
能楽協会が公表する公演情報や国立能楽堂の定例公演カレンダーから浮かぶのは、観客層の明確な二分化である。一方に、流派の催しや国立能楽堂の定例公演に通う長年の愛好家。もう一方に、シェイクスピア能や野村萬斎の公演に初めて来る、古典芸能未経験の観客。両者の重なりは、関係者の実感としても、決して大きくない。
新作能の台本が文学的に評価されても、それだけで客席が埋まるわけではない。現在の能楽界の経済は、依然として型の習得を求める稽古生と、定例公演を支える常連の寄付によって支えられている。
一方で――型は変えてはならないという立場
能楽界の伝統派からは、新作能と異ジャンル接続に対する静かな異議が提示され続けてきた。能は台本の新しさではなく、型(かた)の厳密な継承にこそ本質があり、新作の増加はむしろ型の緩みを招く、という主張である。この立場は保守的に見えるが、芸能の身体性を重視する立場として、芸術論的にも一貫している。
六百五十年目の問い
能が現代劇として「成立する」かどうかという問いは、じつは答えが一つに収束する類のものではない。書き続けられるかぎり新作能は成立するし、型の継承を重視する立場から見れば、そもそも成立させる必要はない。両者が並んで存続していること――これ自体が、中世から届いた芸能が現代に残した一つの答えである。
- 公益社団法人 能楽協会
- 国立能楽堂 公演記録
- 世田谷パブリックシアター 上演アーカイブ